経営学は経営の役に立つのか 4.経営の原理原則

 このシリーズも4回目ですが、今回が最終回です。

 松下幸之助さんが「余裕を作ろうと思わなければあきまへんな」と答え、聴衆が失笑したとき、観衆の一人だった若き日の稲盛和夫さんは、「まさしくその通りだ。まずは思うことが大事であって、個別具体的な方法など講演で話せる訳がないじゃないか」と思ったそうです。

 学問の目的は真理の追求であり、真理とはいつの時代でも誰が考えても正しいことです。
持っているりんごから手を離せば地面に落ちるのは、誰がやってもいつの時代でもそうでしょうが、ある会社の経営がうまくいった手法を別の会社が真似て も、また10年後に同じようにやっても経営がうまくいくとはいえません。「真理」の意味合いが自然科学とそれ以外では違う感じです。

 経営についても同じように他の経験や知恵に学ぶことが有効です。
その際、個別の状況が違っても同じように使える経験・知恵と、あるケースではうまくいっても他のケースではその通りにならない経験・知恵とがあります。
後者の例があるからといって経営学が役に立たないという話にはなりません。

 ということを踏まえての結論となる今回ですが、経営学における真理の追究とは、経営における原理原則の明確化とその原理原則が有効である理由の解明だと私は考えます。

 この原理原則は得てして「そんなのあたりまえじゃないか」と思われることが多いのですが、実はそれほど当たり前のことでもないのです。
私は中小企業の中でも小規模企業・小企業を中心に研究を進めていますが、高名な先生方にも誤った認識が少なからずあります。

 例えば経営計画は、「どの企業にもなんらかの形で存在する制度である」と高名な先生が書かれていますが、規模が小さくなるほど経営計画を持たない会社の比率が高くなっています。また、別の先生は、その少ない理由として小さな会社では経営計画は役に立たないとも書かれてますが、実際には小さな会社でも経営計画は有効です。「小規模企業でも経営計画は有効である」というのが当たり前のことだったのです。
詳細はこちらを 「日本の中小企業における経営理念と経営計画の実態と業績に関する実証分析」 http://barrel.ih.otaru-uc.ac.jp/handle/10252/5370

 何が本当に「あたりまえに」正しいことなのか、これを明らかにすること、そして、その理由を説明することが必要と考えます。




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コメント / トラックバック2件

  1. 武内 英一 より:

    おはようございます
    武内です

    『経営学における真理』を、「原理原則の明確化」と「その有効性」と定義するのも一つの方法かもしれません

    そもそも『学問』というのは、社会にそれまで一般的に認められていた思考を覆すもの(「地動説」や「進化論」や「相対性理論」等々)だけでなく、一般的に認められていた思考を追認するもの(何がありますかね?)も含まれるでしょう

    しかし、後者の場合はそれが果たして意味のあるものなのかどうかが特に問われると思います
    いずれの場合でも、『学問』が意味のあるものかどうかは、その理論が社会に新たな思考を齎すかどうかで判断されるのではないでしょうか?

    例えば、小椋さんの「経営計画と業績は相関している」という言説ですが、ダレル・ハフが例に挙げた『ラム酒と司祭の何とか』のように、実はそれはもっと別な本質を違った形で結び付けているのかもしれません

    若しかしたら、「経営者が努力をすれば結果は追いてくる」ということを『経営計画』と『業績』に置き換えているだけのことなのかもしれません

    この場合、「経営者が努力をすれば結果が良くなる」という命題が社会に新たな思考(追認)を齎すものなのでしょうか?

    より一般的な思考として、『努力すればそれに伴って結果が現れる』という風に捉えられています
    だから、『柳に飛びつく蛙』のようなものが出て来たのだと思います

    それを具体的な数値に置き換えようとしたのが、『三度目の正直』のかもしれません
    そうすると、それに対する【反例】が生じてきますので、今度はそれを表すために『二度あることは三度ある』という命題が出来ることも考えられます

    思いつくままに書いたので、論旨がブレているかもしれませんが私の『直感的な感想』でした???

  2. 小椋 より:

    武内さん、コメントありあがとうございます。
    今日のブログ(更新は夜になると想いますが)で、私なりの回答をしたいと想います。

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